佐瀬寿一インタビュー*Part3

ーー74年は佐瀬さんにとって目まぐるしい1年だったようで、『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ/73〜93年)の仕事も始めています。

佐瀬 大学のゼミでいっしょだった高田文夫さんが(パイロット版の)放送作家やってたから、野田宏一郎さん(フジテレビ・チーフプロデューサー/SF評論家の野田昌宏)に進言してくれたんだと思うけど。もう一方で、実は当時住んでたアパートに、浅井(鉄雄)さんてカメラマンの方は住んでおられて。

ーー後に雑誌『GORO』で有名になる、ヌードグラビアの大家ですね。

佐瀬 当時『ポンキッキ』でスチールカメラマンをやられてて、浅井さんにも紹介してもらったんだよ。高田さんと、ダブルって推薦してもらったというのが真実というか。

ーー番組スタート時には高田さんの名前が消えて、佐瀬さんはそこからが本番。初期は藤家虹二さん、越部信義さんら戦前生まれの作曲家ばかりの中に、若い世代の代表として佐瀬さんがポツンと一人だけおられますよね。

佐瀬 (『ポンキッキ』は)当時作曲、編曲ワンセットだったので、自分で編曲できない作曲家は参加できなかった。

ーー初登場曲は「とけいのうた」ですね。ここでは唯一、佐瀬さん自身が歌っています。

佐瀬 他に歌える人はいればお願いしたかったぐらい。一回、自分で歌ってレコード出してるから、わかるからさ。演奏は合歓の郷(ヤマハ音楽院)のころの仲間がやってくれたのね。

ーー山口剛さんほか、吉田拓郎のバックをやっていたマックスのメンバーですね。

佐瀬 このときのリードギターはチャー(竹中尚人)なんだよ。たまたま知ってる奴がいて。

ーー当時、エレック所属の生田敬太郎さんのバンドにいたんですよね。後に「およげ!たいやきくん」の初代シンガーをやられていた方(詳しくは『昭和のテレビ童謡クロニクル』参照のこと)。

佐瀬 まだ10代だったけど、なんてうまいギターなんだと。

ーーそれに続くのが、「ママの右手は魔法の手」、「そらとぶさんりんしゃ」で。なぎら健壱さんも当時はエレックでしたけど。

佐瀬 番組サイドからの紹介ですね。すべてお膳立てされてたから。

ーーその後「およげ!たいやきくん」で最強のタッグを組む、作詞家の高田ひろおさんとのコンビがここで初めて生まれます。

佐瀬 高田さんとはそれ以前からやってたの。ジュンアンドケイ時代に、ダ・カーポ「川風吹く街」(75年)とか、ちゃんちゃことか。『ポンキッキ』で再会したのも、これはひとつの縁かなと。

ーー後年までリピートされる、いずれも番組の代表曲。キャッチーなメロディーが多くて。

佐瀬 コマーシャルで鍛えられたからね。人に覚えてもらってナンボだから。ホテル三日月「ゆったりたっぷりのんびり」とか。レコードが売れるかどうかは結果論なんだけど、人の心に入り込めるメロディーっていうのはあるから。自分の中の哲学みたいなものが。

ーーCMソングはいつごろから?

佐瀬 手塚治虫さんの虫プロってあったでしょ。あそこはコマーシャルの制作もやってたんです。そこが乳酸菌飲料でヨーク(愛知ヨーク。日清ヨークとは別会社)って製品のCMやってて。声かけられて、そのとき「消えた思い出」のピオニーズを使ったの。

ーー代理店じゃなく制作会社からの依頼なんですね。

佐瀬 代理店も兼務してたと思うんだよ。名古屋かなんかのメーカーだよね。これがいちばん最初。ギャラが1万円とか5000円とかの時代。

ママの右手は魔法の手.jpg

虫プロ(虫プロダクション)……手塚治虫がアニメーション制作会社として61年に設立。日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』(63〜66年)をはじめ、『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』などの手塚原作アニメ、『あしたのジョー』、『ムーミン』などをヒットさせた。

ーー当時の『ポンキッキ』の録音環境について、改めてうかがいます。初期は河田町のフジテレビに近かった、高田馬場のアバコ(クリエイティブスタジオ)でしたよね。早稲田教会のコーラスを録音するために作られたと言われる、大きい録りのブースがあるスタジオ。

佐瀬 アバコは映像収録そのものができるから。ガチャムックの声のダビングもやってたし。MAからミックスまでできたんで。

ーー映像見ながら録音できるシンクロができるMAスタジオが珍しい時代でしたから。レコーダーは4トラックでしたよね。

佐瀬 初期はそう。ヴォーカル用に2チャンネル空けておいて、残り2チャンで一発録り。でも、ダイアローグのエンジニアが音楽もやってるからさ。思った通りに録れてるわけじゃなくて。別にするとお金かかるから仕方ないんだけど、こっちも新人だから意見は言えないし。「たいやきくん」が売れたおかげで、以降は目黒のモウリ(スタジオ/現・モウリアートワークスタジオ)でやれるようになるんだけど。

ーー日本で最初に16トラックのレコーダーが入ったスタジオですね。いきなり4チャンから16チャンになると。

佐瀬 いや、「パタパタママ」までは4トラックだったけど。「野菜畑の演奏会」は8チャンネル使ったと思う。ブラスセクションがあったんで、2チャンの同録だと怖いから、リズム・セクションだけ先に録音して、あとからダビングしてる。

ーー佐瀬さんはポップス出身のアレンジャーですが、ブラスやストリングスを多用しますよね。当時だと、シカゴとかBS&T(ブラッド・スウェット&ティアーズ)とがブラスロックが流行っていて。

佐瀬 そのへんの影響があったと思うよ。アレンジ料は信じられないほど安いんだけど、『ポンキッキ』は音楽予算だけは潤沢に使わせてくれたから。「いいよ、好きな編成使って」っていうから。「およげ!たいやきくん」なんて、ストリングスも6:4:2:2(第一ヴァイオリン:第二ヴァイオリン:ヴィオラ:チェロ)だし。

ーー錚々たるスタジオミュージシャンが参加してたんですよね。インペグは、ピンク・レディーなどの歌謡曲や、スペクトラムのメンバーのブッキングで有名なボーダーラインでした。

佐瀬 ピアノはハネケン(羽田健太郎)、ギターは水谷公生さんか矢島賢さん、ドラムは竹田達彦さんか田中清さん、ベースはチーボーこと武部秀明さん。高中(正義)さんも弾いてて、たぶん「ホネホネ・ロック」だったと思うけど。

ーーそのころはまだ、スタジオ仕事はジャズミュージシャンがやってることが多かった時代。譜面が初見で読めないとできない仕事だから。それがあるころを境に、ティン・パン・アレーをはじめとしたロック世代に入れ替わる。

佐瀬 いや、もう竜崎さんなんかバンバン使ってたよ。その端境期かな。『ポンキッキ』の初期はジャズとロックが混じってた。基本的にインペグ屋さんが集めてくるから、こっちも偉そうなこと言える立ち場じゃなかったし。藤家虹二さん、越部信義さんの名残りなんじゃないかな。「ホネホネ・ロック」のときは、最初からギターはロック系の人でってお願いしたんだけど、サイドメンがジャズ系の人だからさ。高中さんも「グルーヴ合わねえなあ」って言ってたよ(笑)。

ーー「宵越しの金を持たない」ってジャズ界の矜持があって、とっぱらい(即金)もらって夜の酒場に消えていくみたいな。気難しかったり、ロックやポップスをバカにしてた人も多かったと聞きますね。

佐瀬 ロックの人はすごく一生懸命やってくれるからね。水谷さんなんかは一日5件も6件も掛け持ちしててさ。そういう人は引っ張りだこだった。

ーー「ホネホネ・ロック」のファズやワウワウもあれ、ギタリスト(高中正義)の私物だったそうですしね。譜面は大丈夫でしたか?

佐瀬 バッチリだったよ。スタジオミュージシャンは基本、初見で譜面は読めること。あとは「ここ埋めて」でお願いできることかな。「パタパタママ」は、水谷さんにここ埋めてってお願いした。

ーーあの有名なイントロ?

佐瀬 いや、あれは書き譜。歌中の合いの手とかのフレーズは水谷さん。

ーー「たいやきくん」でガース・ハドソン(ザ・バンド)みたく、フェンダー・ローズにレスリーかけて弾いてたというのはハネケン?

佐瀬 じゃない。栗林(稔)さんかな。

ホネホネ・ロック.JPG

MAスタジオ……マルチ・オーディオ(MA)用スタジオ。レコーディングスタジオにビデオモニターを設置して、映像との同期録音が可能なスタジオは当時は珍しかった。映像観ながら録音を行う「アフレコ録音」などで知られる、アオイスタジオ、アバコ、整音スタジオなどが有名。

ボーダーライン……ミュージシャンを手配するインペグ業界の老舗。70年代より『ひらけ!ポンキッキ』のレコーディングで、スタジオプレーヤーのコーディネーションを務めた。後に原盤制作に進出し、アニメ『マクロスF』、『∀ガンダム』、『創聖のアクエリオン』などは同社が音楽プロデュース。

#虫プロ #MAスタジオ #ボーダーライン

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