佐瀬寿一インタビュー*Part1

ーー高校時代にバンド活動を始めて、『勝ち抜きエレキ合戦』(フジテレビ/65〜66年)に出演されていたビートルズ第一世代。大学は当時音楽が盛んだった、日大芸術学部放送学科に進まれています。

佐瀬 同じ時期には、松崎しげるさんとかいましたね(GSグループ、ホットミルク在籍)。同じ49年生まれだけど、僕は早生まれなので学年はひとつ上でしたけど。

ーーグループサウンズでプロデビューしてたかもしれない、予備軍の中におられたと。

佐瀬 いや、それほどうまいわけじゃないからさ(笑)。

ーー一当時のレパートリーはビートルズ曲とかですか?

佐瀬 コピーやりつつ、オリジナルもやってました。エレキの編成で。それが3つぐらいあったと思う。ダンパ(ダンスパーティー)とかで、呼ばれては営業で行ってました。

ーー全部キーボード?

佐瀬 いや、ギター。今はピアノだけど。ちっちゃいころに習ってたんで。バンドやってるとキーボードってあんまり目立たないでしょ。キーボードのいるバンドってあまりいなかったし。

ーー早い時期にそこから、作家活動にシフトされますよね。

佐瀬 そのころ、ニッポン放送に『バイタリス・フォーク・ヴィレッジ』(66年〜72年)って番組があって。ビリー・バンバン、ブレッド&バター、ジャックス、エンケン(遠藤賢司)とかが出ていた。僕たちのバンドもたまに出てたのね。番組ディレクターだった金子洋明さんがやってた、ミュージカル・ステーション主催のコンサートの前座に出たり。

 そこにピオニーズって女性デュオがいて、すごくいい声してたの。彼女らも自作自演なんだけど、「今度曲書くから歌ってみない?」って。曲書いて持って行ったらえらく好評で、レコードにしたいと。それが「消えた想い出」(69年/日本グラモフォン=ポリドール)で、僕の初めてのレコード。大学2年か3年のときで、まだ10代でした。詞曲とも僕なんだけど、詞は『バイタリス』のスタッフの人に手を加えてもらってましたね。

ピオニーズ……田熊由美、北崎美知子、2人組の女性デュオのコーラスグループ。「パッパパパラ」、「サニー坊や」などのヒットで、近年ソフトロック分野で再評価を受けている。

ミュージカル・ステーション……69年に設立された、日本初のフォーク/ロックコンサート制作会社。創業者は金子洋明。『バイタリス・フォーク・ヴィレッジ』の番組制作やアーティストマネジメントも手掛け、森山良子、五輪真弓らを輩出。

『バイタリス・フォーク・ヴィレッジ』……66年〜72年に渡ってオンエアされた、ニッポン放送のフォーク番組。構成作家は森進一「襟裳岬」で有名な作詞家、岡本おさみ。アマチュアのフォークグループの登竜門として人気を博した。同番組からデビューしたビリー・バンバン「白いブランコ」が大ヒット。

ーーデビューはフォークなんですね。

佐瀬 演奏は『バイタリス』用のCSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)みたいな、ちょっとアコースティックなロック編成。編曲は川口真先生でした。

 そのとき、音楽出版社の人に「印税にしますか? 買い取りにしますか?」って聞かれたんだよ。貧乏学生だから、目先のニンジン取るよね(笑)。それで3万円もらった。権利譲渡したの。

ーーそのときはキャッシュを取って、印税配分を放棄したわけですね。でも、番組から先行デビューしたビリー・バンバンが、「白いブランコ」で20万枚ヒットになったりしてましたよね。

佐瀬 音楽で食えるかみたいな時期だから。あの3万円に吊られた(笑)。話題にはなったんです。ヒットはしなかったけど。

ーーそれに味をしめて、作家の道を進んだと?

佐瀬 変な自信が付いて。確証のない自信というか(笑)。その後で、中尾隆聖さん、当時は竹尾智晴って言ってたんだけど。頼まれて彼の曲を書いたんです。「あこがれ」(72年)って曲。

ーー『それいけ!アンパンマン』のばいきんまん、『ドラゴンボールZ』のフリーザ役で有名な声優さんですね。

佐瀬 テイチクに、テイチクとオールスタッフで作ったブラックレコードってレーベルがあったのね。いずみたくさんのレーベルだから、いずみさんの曲のカップリングになってるんだけど。

オールスタッフ/ブラックレコード……作曲家いずみたくが主催していたテイチクのフォーク/ロックレーベル。『飛び出せ青春!』主題歌など、いずみたくシンガーズがここからブレイク。後期はロックレーベルに軌道修正し、海援隊「あんたが大将」などがヒット。

ーー「たたかいのうた」のB面ですね。

佐瀬 それがレコードになった2曲目。そっちは印税契約にした。その仕事でテイチクのディレクターとも仲良くなって、自分のレコード出そうということになった。ブラックだとオールスタッフの資本が入ってるから手続き的にアレなので、テイチクの本レーベルでやろうということになって、「俺は今/駄目なオイラが旅立った」(72年)ができた。

ーー唯一の自作自演のレコードですね。

佐瀬 「俺は今」では初めて自分で編曲した。指揮も自分でやるわけじゃない。もうホントに手が震えてさ(笑)。そのころはまだ4チャンネル。もう8チャンネルはあったと思うけど。録音はグリーンバードスタジオ(当時はテイチク杉並スタジオ。99年に閉鎖)だったね。寺子屋みたいなスタジオで。

ーーいきなり編曲任されたのは、バンド経験が役立ったわけですね。

佐瀬 いや、個人的にもアレンジの勉強してたんです。ネム音楽院……恵比寿にあったヤマハ音楽振興会に通って、ストリングスやブラスアンサンブルもある程度勉強してた。当時作曲のメソッドを教えてもらっていたのが村井邦彦さん。編曲は森岡賢一郎さん。

ーー作詞は、今もお付き合いのある高田文夫さん。

佐瀬 当時すでに高田さんはスタッフ東京で放送作家やってて。作家やってるんだから詞も書けるだろうと。作詞家で知ってる人誰もいなかったから。

ーーこのソロデビューは、1枚きりで終わったと。

佐瀬 もともと自分では、パフォーマーはそんなにやりたいと思ってなかったんです。ライターのほうをやりたかったから。1枚お皿(レコード)出したでしょ。そのとき、パフォーマーでやっていくには、なんか足りないなと思った。

ーーそのころバンドは?

佐瀬 もうない。学校は卒業してたから。それで食えないから、友達がヤマハでポプコン(ポピュラー・ミュージック・コンテスト)のディレクターやってたんで、そこのアレンジの仕事を始めるんです。木下(純)くんという、大学の同級生。コンテストには譜面の応募枠があって、アマチュアから送られた譜面を見て面白いなと思う曲を、4、5人編成のバンド用にアレンジを起こすわけ。それをバックに、スタジオミュージシャンに歌わせるために。

ーー作家コンクールやってましたね。

佐瀬 そこで鍛えられたと思う。全国大会の前にブロック予選があって。関東甲信越の。そうすると弦のアレンジまでお前がやれって。

ーー実践を通して覚えていくわけですね。

佐瀬 時にはリハーサルのとき、これおかしいよって言われたりするわけ。弦の人やディレクターに(笑)。

ーー当時、作家として目標となるような存在はいましたか?

佐瀬 もっと漠然と、音楽で食っていければなという感じ。バカラックとか好きだったけど、そこまでなれるなんて思ってないから。もちろんヤマハだけじゃ食えないから、クラブでピアノの弾き語りやったりとか。今みたいにカラオケの装置はないから、お客の伴奏を弾く人間カラオケみたいな感じ。キーを瞬時に変えるとかね。

村井邦彦……作曲家。グループサウンズ時代に、タイガース、テンプターズへの楽曲提供でデビュー。後に原盤制作会社アルファミュージックを設立し、荒井由実を発掘。アルファレコード設立後、細野晴臣のイエロー・マジック・オーケストラをブレイクさせた。

森岡賢一郎……編曲家。東海林修らと並んで、日本の歌謡界の黎明期に活躍。加山雄三「君といつまでも」、伊東ゆかり「恋のしずく」、ジャッキー吉川とブルーコメッツ「ブルー・シャトウ」、菅原洋一「今日でお別れ」など、日本レコード大賞編曲賞受賞作多数。

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